足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群

本山製錬所近代化産業遺産経済産業省では歴史文化的価値を有する建造物や機械装置などを近代化産業遺産と命名し、それらを種として各地域の活性化を図ることを目的に、2007年度に33のストーリー575件の近代化産業遺産を認定しました。
 足尾銅山関連では「ストーリー12 銅輸出などによる近代化への貢献と公害対策への取組みに見る足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群」として認定されました。
♦ 曇り空の中、朽ちた製錬所の建物が目に飛び込んできました。背後の山に、うっすらと雪が積もるその光景は、かつて製錬所が盛んに操業していた当時をイメージすると、とても物悲しい気持ちになります( 写真:本山製錬所 2008/01/04 )。

銅山観光銅山観光1.通洞坑通洞坑は明治18年(1885)に開坑されました。明治29年(1896)には、通洞坑、本山坑、小滝坑の各坑道が立坑で結ばれ、足尾銅山の基礎が確立しました。
  昭和48年(1973)2月24日、通洞坑(国指定史跡)の閉山式当日は、雪が静かに降り続いたそうです。そして、その日を境に坑口を出入りする坑夫の姿は途絶えました。しかし、昭和55年(1980年)の足尾銅山観光のオープン以来、多くの人たちが坑口を訪れています(写真左:2008/8/12)。
通洞坑入口の右上には山の神が祭られています(写真右:2008/8/12)。
 私の小学生時代(昭和30年代)は、通洞地区と砂畑地区の近道として、通洞坑の左に位置する坑道(トンネル)を内緒で利用していました。
♦ 開坑(かいこう):地下資源を開発するため坑口を設けて新しく坑道を切り開くこと。
♦ 坑道 (こうどう):鉱山などの地下に設けた道。
♦ 立坑(たてこう):垂直または垂直に近い傾斜で、開さくした坑道。坑内の運搬、排水、通気に使用し、動力線などが通してある。

‹ 現地案内板の抜粋 ›
 通洞坑(つうどうこう)
明治18年(1885)開坑に着手し、11年の歳月をかけ本山坑と貫通させ、足尾銅山の大動脈となった。昭和48年閉山となり日本最大の銅山は歴史を閉じた。 日光市

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通洞選鉱所2.通洞選鉱所選鉱の工程は、坑内から掘り出した粗鉱を砕鉱工程で均一サイズに砕きます(写真右上:2008/01/04)。
  続いて、重液選鉱工程で廃石を除き、磨鉱工程で粗鉱を細かに砕き、浮遊選鉱工程で精鉱を取り出します。
♦ 粗鉱:坑内から採掘した状態の鉱石(品位約1.2%)。

選鉱所シックナー 取り出した浮選精鉱は円筒状の鉄筋コンクリート製の精鉱シックナーで水と精鉱とに分離します(写真右中:2007/10/20)。
 分離した精鉱は、次工程の本山製錬所へ搬送しました。
♦ 精鉱:選鉱で品位を高めた製錬前の鉱石(純度20%)。

新梨子堆積場跡 選鉱所の東どなり(現在の中央グランドから歴史館にかけて)は、選鉱砕石の堆積場でした(新梨子堆積場)。薄い紅茶色した石ころのズリ山でしたが、私が小学生(昭和34年頃)の時に野球場が造られ、野球等をして楽しんだものです。
  右の写真は"足尾まつり"の時の、花火の打ち上げ風景ですが、この場所が上記の野球場(新梨子堆積場跡)です(写真右下:2010/05/03)。
♦ ズリ山:資源として使えずに廃棄された岩石の山。

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
選鉱所は、坑内から採掘された鉱石を選り分けて、製錬所へ送る役割を担っていました。本山、小滝、通洞の主要坑口にはそれぞれ選鉱所がありましたが、大正10年までに通洞選鉱所に集約されました。

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製錬所製錬所3.本山製錬所産銅量が日本一になるなどの急激な鉱山の成長に対処するために、各坑口にあった製錬所を明治17年(1884)に、現在の場所に集約しました。
 空に向かってスックと建っている煙突は、大正8年(1919)に造られ、高さは約45mあり、本山(足尾)製錬所のシンボルともいえるものです。反射炉工場から出る製錬排煙は、電気集塵装置で除塵し、この煙突から排出されました。
 左の写真は、雪化粧した大平山(たいへいざん・松木山)を背にした製錬所です(撮影:2008/12/29)。右の写真では、後方に地蔵岳がかすんで見えます(撮影:2006/05/03)。

製錬所の解体作業 渡良瀬川(松木川)を隔てて対岸を見るたびに、増える更地が目に入ります。平成元年(1989)に操業を停止した製錬所では今、解体作業が進んでいます。大煙突など11箇所の機器施設は、保存されるそうですが · · ·。
(写真:2011/03/30)

‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
製錬所大煙突:製錬所の象徴のようなこの煙突は、大正8(1919)年に建てられたもので、高さ48m、直径が下部5.7m上部3.8mです。
足尾製錬所:昭和31(1956)年に完成した自熔製錬工場でかつては上段に脱硫装置を備えた硫酸工場をあわせもった施設でした。
昭和48(1973)年2月閉山。その後輸入鉱石を製錬してきましたが、足尾線貨物廃止にともない、平成元年事実上の操業を停止しました。

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古河掛水倶楽部4.古河掛水倶楽部足尾駅から左に折れ、しばらく進むと渡良瀬橋の手前右側に白い建物の古河掛水倶楽部が見えます。
 明治32年(1899)に建設されたこの洋館は、明治末から大正初期に改築され、外観は洋風で内部は和洋折衷の木造建築で、銅山での接待、宿泊施設、会合等に使用されました。館内には大正13年(1924)製のピアノや、製作年代は明治中期と推定される国産の西洋式玉突台(ビリヤード台)があります。(写真:2007/10/20)。

春の渡良瀬地区 写真の右端にある橋は渡良瀬橋、Uの字に流れる川は渡良瀬川、後方中央の山は有越山、そして清々しい緑に囲まれた建物が、掛水倶楽部です(写真:2007/05/05)。
♦ 日光開山の祖といわれている勝道上人がこの地に着いたとき、川には橋がなかった。そこで、川の浅瀬を見つけ、無事に対岸に渡ることができた。以来、この地を渡良瀬という。

旧足尾銅山所長宅庭旧足尾銅山所長宅応接室 明治40年(1907年)に建てられ、平成22年(2010年)2月に県有形文化財に指定された旧足尾銅山社宅群が、古河掛水倶楽部の西隣にあります。
 左の写真は、旧足尾銅山所長宅応接室の外観で、平成23年(2011年)10月から一般公開されました。右の写真は、旧足尾銅山所長宅の庭で、渡良瀬川に面しています。(写真左右:2010/11/07)

‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
明治44(1911)年頃建てられた和洋折衷の古河の迎賓館で、鹿鳴館や帝国美術館を設計したジョサイヤコンドル氏の影響を強く受けています。

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宇都野橋5.宇都野火薬庫跡写真は庚申川に架かる宇都野橋です。この橋の手前北側に、採鉱用火薬類を保管する為の宇都野火薬庫跡(国指定史跡)がありますが、山の陰に隠れているので、道路(公道)からは見ることができません(写真:2007/09/16)。
  火薬庫の各棟は、レンガ積み、及び切石積みの堅固な建物だそうです。さらに、火薬庫の各棟は各々土手に囲まれて独立した状態で、火薬の誘爆事故を防ぐ環境下に建っています。
 私の記憶では、小学生時代の写生の時間に宇都野橋を描いた時は、トラス橋だった気がします。また、小学生時代の遠足"草刈山スキー場"への登山口は、確かこの付近でした。 

♦草刈山スキー場
昭和31年 県下スキー選手権大会・県下高校中学校スキー大会開催
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
近代の採鉱技術に大きな影響を与えた火薬類の保管庫です。明治45年に建築され、その後増改築が繰り返されて、大正8年に完成しました。火薬類の保管庫やダイナマイト庫、雷管・導火線庫、火薬の梱包作業所で構成されています。

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本山坑本山坑 6.足尾銅山採鉱坑道(本山坑)かつて本山坑は坑口前に梨の木があったことから梨木坑と呼ばれていたそうですが、明治時代に"有木坑"に改名されたそうです。
 明治16年(1883)に、江戸時代の旧坑(梨木坑)を修復、通行可能にして、本口坑下部に向けて坑道開削を進めました。そして明治21(1888)年には本口坑側と貫通し、本山の主力坑道は本口坑に替わり本山坑(有木坑)になりました。
 左の写真では、赤い屋根の建物と廃屋との陰に隠れて坑口は見えませんが、右の写真では、廃屋が解体されたため僅かに坑口が見えます。(写真左:2008/03/30)(写真右:2010/03/12)
♦ 開削:土木工事をして、新たに道路や運河を通すこと。(開削の削は、鑿の代用字)

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
足尾銅山の主要な坑道の一つです。明治16年に江戸時代からあった旧坑道を再開発したもので、開さくには当時の最新鋭だった機械が導入されました。

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小滝坑跡当初の小滝坑跡7.足尾銅山採鉱坑道(小滝坑跡)庚申川左岸にて発見された江戸時代の旧坑を、明治18年(1885)に取明けを開始して、翌年開坑された最初の小滝坑跡です(写真左:2007/09/02)。
数年後、当初開坑した坑口の下流にさらに大きな間口を有する坑口を開坑しました。これが小滝坑跡で、約70年間の操業の後、昭和29年(1954)に廃止になりました(写真右:2007/09/02)。
♦ 取明け(とりあけ):旧坑を修復して改めて掘進すること。
♦ 開坑(かいこう):地下資源を開発するため坑口を設けて新しく坑道を切り開くこと。

穴の跡旧小滝火薬庫跡 小滝坑跡の対岸にある岸壁には削岩機の具合を調べる為や、練習の為にあけられた穴の跡があります(写真右:2007/09/02)。
  この岸壁は象山(ぞうやま)下部の岩盤で燕岩と呼ばれ、坑内で使う火薬を一時保管する場所でした(写真左:2007/09/02)。

旧小滝橋旧小滝橋 小滝坑口の正面に架かる旧小滝橋は大正15年に架設されました。構造は鋼製のトラス橋で、部材を曲げる力が生じない形の桁橋で、長さは26m、巾は3mあります。
 足尾銅山では鉱山鉄道による鉱石運搬が早くから行われていました。この橋にも電気機関車の走る線路が敷かれ、鉱車を牽引して坑内から坑外へと、鉱石の運搬が行われました。
(写真左:坑口に続く旧小滝橋 2007/09/02)
(写真右:旧小滝橋の下流から写す 2011/03/30)

‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
小滝坑口:昭和29(1954)年まで使われていた小滝のメイン坑道です。明治18(1885)年の旧坑道取開けから約70年間銅を産出し、この地域を支えて来ました。
小滝旧坑口:江戸時代に掘られ放置されていましたが、古河市兵衛の経営になり再び掘ったところ、わずか30尺(約9m)で大直利にあたりました。江戸時代1600尺(約500m)も堀り、あきらめていたことを考えると、市兵衛の運の強さを示す出来事といえます。
∗取開け(とりあけ):以前掘っていた所を再び掘ること
∗直利(なおり):銅をたくさん含んだ鉱石が集まっているところ

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本山動力所8.本山動力所出川左岸に立地する動力所です。動力所ではコンプレッサーを作動させ、削岩機の動力源である圧縮空気を作りました。それまでは低容量のコンプレッサーを坑内各所に分散して設置していましたが、ここでは大型コンプレッサーで圧縮空気を作り、坑内の各所に配した鉄管を介して圧縮空気の集中供給を行ないました(写真:2008/03/30)。

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
動力所では、さく岩機の動力源である圧縮空気がコンプレッサーによって作られていました。また、そのための電気は、間藤発電所(後に細尾発電所)から送られた高圧電力を併設の変電設備で変圧し、供給されていました。

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通洞動力所通洞動力所9.通洞動力所通洞選鉱所前にあるレンガ造りの建物は、圧縮空気を坑内に供給する為の施設です。当時のコンプレッサーの出力は100馬力程度が一般的だったそうですが、通洞動力所では300馬力もあるコンプレッサーを設置しました。(写真左:2008/01/04)(写真右:2009/01/18)

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
明治45年には、通洞動力所に大型コンプレッサー「インガーソルランドPE-2」が導入されました。このコンプレッサーは、当時の国内の鉱山では最大となる320馬力の出力を誇りました。大正3年には、本山動力所にも同型の大型コンプレッサーが導入されました。本山動力所には現在もコンプレッサーが保管されています。

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水力発電所跡水力発電所跡10.間藤水力発電所跡渡良瀬川を隔てて本山小学校と面する道路脇に、地面から斜めに突き出た直径1m程の鉄管があります。これは発電所跡の鉄管(内径寸法1.38m)の一部で、ジーメンス社からの輸入ものです。曲げた鉄板をリベットで円筒に結合したもので、鉄管上部には鉄管連結用のフランジが付いています。日光細尾発電所が稼働する明治39年(1906)までの15年間、間藤水力発電所は稼働しました。
 鉄管背後の岩肌には、落差30m程の鉄管を据え付けるために半円筒状(ハーフパイプ状)に削った痕跡がみられます(写真右:2010/05/03)。
 渡良瀬川(松木川)を見下ろすと、川床に原動所の煉瓦造基礎の一部が残っています。背後の青色の橋は本山小学校へ通じる橋です(写真左:2007/08/19)。

‹ 現地案内板の抜粋 ›
間藤水力発電所跡:ドイツのジーメンス電気機械製造会社のヘルマン・ケスラー技師の勧めにより、はじめて水力発電にふみきり、明治23年(1890)12月、この地(上間藤)に原動所(水力発電所)を完成した。名残りをとどめる直径1mの鉄管の一部が上の平がけ下にあり、原動所はこの下の渡良瀬川原にあった。
昭和53年3月30日 日光市教育委員会
‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
明治23(1890)年12月完成したドイツ・ジーメンス社の技術を導入した発電所です。当時としては240kWの出力を誇る日本最大の規模でした。
この電力は立坑や排水、そして一部は電灯用に利用されました。

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新梨子油力発電所新梨子油力発電所11.新梨子油力発電所非常用電力供給設備として大正4年(1915)に建設された油力発電所で、昭和29年(1954)廃止になりました。(写真左:2008/01/04)(写真右:2009/01/18)

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
重油を燃料とする発電所で、非常用電力供給設備として大正4年に建設されました。出力1000kWは当時としては最大規模のものでしたが、昭和29年に廃止されました。

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通洞変電所12.通洞変電所発電所から送られてきた電流の電圧を変えて各部門へ送る施設です。増加した電力の需要を賄うための発電計画の下に、明治39年(1906)細尾第一発電所竣工後に建設され、日光精銅所も同年操業開始となりました。
 写真手前の橋は、渡良瀬川に架かる砂畑橋で平成22年(2010)3月竣功。(写真撮影:2010/03/31)

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
通洞変電所は、大正中期以降、足尾銅山の使用電力を管理する中枢機能を果たしました。鉱山事務所である足尾鉱業所近くに位置し、鉱業所が取り壊された今も、変電所として使用されています。

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間藤浄水場13.間藤浄水場明治30年(1897)5月27日、"鉱毒予防工事の命令書"が東京鉱山監督署長より鉱業主に対して交付されました。それに従い建造された浄水施設の一つが間藤浄水場です。
(施設の概要):本山坑々水に含まれる銅鉱石などを沈殿除去するための沈殿池と、硫酸銅などを中和除去するための濾過池を本山小学校の南側に建造(写真:2008/01/04)。

‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
本山小学校南側にある池は、明治30(1897)年鉱毒予防工事命令によってつくられた施設で、坑内から出る排水を中和・沈殿させ、無害にして川に流す施設です。

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中才浄水場14.中才浄水場明治30年(1897)5月27日、"鉱毒予防工事の命令書"が東京鉱山監督署長より鉱業主に対して交付されました。それに従い建造された浄水施設の一つが中才浄水場です。渡良瀬川右岸の中才に建造され 、通洞坑の坑内水を浄水処理し河川に放水しました。その処理方法は、沈殿池に注入した坑内水を石灰で中和沈殿させ、オーバーフローした上澄み液を濾過池で濾過して河川に放水しました。銅山閉山後も鉱害防止のために水質浄化の仕事が続けられています。(写真 :2008/01/04)。

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
明治30年に政府から発令された鉱毒予防工事命令により坑内廃水はすべて中和、沈殿して放水することが義務づけられ、本山、通洞などの主要坑口にそれぞれ浄水場が設置されました。本山坑(製錬所廃水を含む)からの廃水は間藤浄水場で処理され、通洞坑の廃水は中才浄水場で処理されました。中才浄水場は、当時の施設を改良し今も浄水処理が行われています。

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原堆積場原堆積場15.原堆積場"原橋バス停"の背後にあるコンクリート壁(擁壁)の内側が、原堆積場です(写真右:2008/01/04)。
  道路(公道)から離れている為見学はできません(写真左:2010/03/12)。
  明治30年(1897)5月27日、"鉱毒予防工事の命令書"が東京鉱山監督署長より鉱業主に対して交付されました。それに従い建造された堆積施設の一つが原堆積場です。堆積場は坑内から掘り出された廃石や、砕いた廃泥を堆積しておく場所です。原堆積場の面積は約28haあり、選鉱スライムを堆積しておく場所でした。脱水乾燥したスライムの、切幹から原までの運搬には貨物索道が使用されました。

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
堆積場は、明治30年の鉱毒予防工事命令により設置されました。堅固な石垣が設けられ、廃石などを集積しています。原堆積場は、大正6年に設置され、昭和35年までの43年間使用されました。

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有越鉄索塔 16.有越鉄索塔 選鉱場から出る廃泥を堆積場へ運搬する索道です。索道のことを足尾では鉄索と呼んでいました。現在、索道の鉄筋コンクリート塔の基礎部分が2箇所残っていて、下にある塔の高さは18m、上にある塔の高さは25mです。塔の左後方の岩壁にある穴は、不規則に掘られた鉱床が崩落した跡です(撮影:2009/01/18)。

有越鉄索塔 小学3•4年生のころ写生の時間に鉄索を描いた事がありました。子供心にも うまく描けた記憶があります。(^ん^?。
  昭和35年(1960)簀子橋(すのこばし)堆積場が完成し堆積操業開始に伴い、選鉱索道は廃止になりました。
 小学生のころ、塔のあるこの裏山はたいへん身近な存在で、下の塔のところまでたびたび歩いて行っては遊んだものでした(撮影:2010/04/18)。

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
索道(鉄索)は、物資や廃石、廃泥の運搬に用いられた輸送用のロープウエーです。有越鉄索塔は、通洞選鉱所から廃泥を堆積場へ運搬するための索道の支柱として、昭和14年に建てられました。

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古河鉱業間藤工場 17.古河鉱業間藤工場間藤駅前に連なる工場の前身が間藤工場で、工作課、分析課が設置されていました(写真:2007/08/19)。
(工作課):輸入した鉱山機械の保守と修理のため、明治24年(1891)に工作課が設立されました。大正3年(1914)には、足尾式三番型削岩機を考案し、大正6年(1917)に削岩機工場が発足しました。
(分析課):主として鉱石の成分分析、その他、排煙、排水、カラミ(゚)等の化学分析を行っていた所です。
♦ 削岩機:岩石やコンクリートを破砕するために穴をあける機械。(削岩機の削は、鑿の代用字)

‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
工作課:明治34(1901)年には土木・機械・電気の三部門を担当した花形職場で、足尾式三番型削岩機といわれる日本人の体格に合わせた手持式小型の国産第一号機をつくりました。
研究課:足尾銅山から掘り出される鉱石の分析などを主に行っていました。その他化学分析などもなされ、排煙から微粒金属を除去する電気集じん器の試験が大正5(1916)年日本で最初に行われました。

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通洞鉱山神社の狛犬本山鉱山神社の狛犬18.本山鉱山神社足尾銅山の繁栄を願い、本口坑が一望できる対岸の山腹に、鉱山神社を建設しました(社殿竣功式:明治22年4月28日)。
  通洞鉱山神社の狛犬はユニークな表情ですが(写真右:2007/10/20)、この本山鉱山神社の狛犬はきめ細かく緻密な仕上がりで、かつその力強さには圧倒されます(写真左:2008/03/30)。

本山鉱山神社 この神社の鳥居は明治22年4月に建造されました。鳥居の構造は素朴な"神明鳥居形式"で、材質は鉄、全体に直線的で、柱は地面に対し垂直に立てられています(撮影:2008/03/30)。  

本山鉱山神社 本殿母屋の柱は丸柱で、向拝左右の向拝柱は面取角柱で、その柱には獅子が外側から内側に向いている彫刻が施されています(彫刻制作 :磯部儀兵衛/栃木県栃木市大平町富田出身)。この彫刻を眺めていると、この社殿を造営し、本山坑で働いた先人達の心意気が感じられます。これら先人の努力により造営された本山鉱山神社の構造物が末永く残ることを祈念します(合掌)。(撮影:2008/03/30)

‹ 現地案内板からの抜粋 ›
本山鉱山神社
本山の山腹にあり、明治22年に本山坑に働く鉱員達の寄進により造営されたもので、足尾銅山の山神社としては、最古のものである。 鉱山神社はふつう山神社といわれ大山祗命、金山彦命、金山姫命の三神を祀ってある。本殿は流れ造りである。

∗ 登山にて見学可能(徒歩道なし) ∗ ▲このページの上に戻る

仁田元村跡久蔵村跡19.松木地域旧三村足尾砂防ダム上流にある松木川、仁田元沢、久蔵沢の流れる地域が松木村、仁田元村、久蔵村の三村跡です。
(写真左:久蔵村跡 2009/09/17 )
(写真右:仁田元村跡 2007/05/03 )

松木村跡 中倉山から北東の方角を見下ろすと、南米ペルーにある"ナスカの地上絵"を思わせる光景が、眼下にひろがっています。ここが旧松木村(松木沢ヘリポート)で、銅親水公園駐車場からの道のりは約3kmです(写真:中倉山から撮影/松木村跡 2009/10/12 )。
◊ 明治10年(1877) 足尾銅山経営開始。
◊ 明治16年(1883) 大鉱脈発見。
◊ 明治20年(1887) 北部の山林、施設、住宅焼失。その後煙害により裸地となる。
◊ 明治26年(1893) 転炉法採用による産銅量の増加に伴い煙害増加。
◊ 明治30年(1897) "鉱毒予防工事の命令書"の交付に従い、鉱害防除施設を建造するも、亜硫酸ガスの完全回収は、自熔製錬法が導入される昭和31年(1956)まで持ち越しとなる。
◊ 明治35年(1902) 松木村廃村。

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
松木地域には中世以来3つの山村がありましたが、明治17年建設の直利橋製錬分工場から排出された亜硫酸ガスの悪影響や山林の乱伐、大火により住居は減少していきました。その後、鉱毒予防工事命令により設置された脱硫塔が煙害を著しくし、住民は移転を余儀なくされました。明治35年には地権者との示談が終結し廃村となりました。現在、多くの方により植樹が行われています。

∗ 徒歩にて見学可能 ∗ ▲このページの上に戻る

足尾鉄道 20.足尾鉄道日光精銅所までの粗銅の搬送は細尾峠ルートでしたが、足尾鉄道開通に伴なって足尾本山駅⇒足尾線⇒両毛線⇒東北本線⇒日光線⇒日光電気軌道⇒精銅所ルートで搬送することになりました。
 写真左の建物は、貨物輸送された銅精鉱を収納する貯蔵庫でした(写真:2010/03/12)。
♦ 粗銅:製錬で品位を高めた精錬前の粗金属(純度99%)。
♦ 銅精鉱:選鉱で品位を高めた製錬前の鉱石(純度20%)。
○足尾鉄道略年表
(1) 大正元年(1912)12月31日 桐生駅〜足尾駅開通(原向駅、通洞駅も同日開設)
(2) 大正03年(1914)08月25日 足尾駅〜本山駅貨物線開通(本山駅は貨物専用駅)
(3) 大正03年(1914)11月01日 間藤駅開設(客扱いの終着駅)
(4) 大正07年(1918)06月01日 足尾鐵道株式会社解散(国有化:足尾線)

硫酸タンク専用車 銅精鉱を製錬する際に発生する亜硫酸ガスから回収した濃硫酸は、足尾駅構内で鉄道用硫酸タンク専用車(タキ29312号)に充填して出荷しました(写真:2010/05/03)。

‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
産銅量の増加に伴う輸送力の増強のため、古河鉱業を中心に敷設されました。大正元年には桐生〜足尾間が、大正3年には足尾〜足尾本山間が開通し、大正7年には国鉄足尾線となりました。

∗ 駅舎見学可 ∗ ▲このページの上に戻る

古河橋21.古河橋芥川龍之介著 『日光小品』 からの引用 (・・・私はこんなことを考えながら古河橋のほとりへ来た。そうして皆といっしょに笑いながら足尾の町を歩いた。・・・) 修学旅行で足尾銅山を見学した龍之介が、銅山発展の礎となった珍しい弓弦形構造の橋を見て何を感じたかと興味を引くのは、私だけでしょうか(写真:2010/02/21)。
  古河橋は上弦が弓(ボウ)のような形状のボウストリング(弓弦形)構造の下路式トラス橋です。このタイプの橋は現在ではほとんど採用されませんが、この橋梁部材の手造り的な鉄の肌や、存在感溢れる鉄のシルエットは、当時の土木技術に関する貴重な産業遺産なのです。
 日本国内では初期の道路用鉄橋の一つに挙げられますが、老朽化が著しく現在は通行禁止となっています。
♦ 古河橋:渡良瀬川に架かる永久橋としては、明治23年(1890)12月に架けられたこの古河橋が最も古い。

‹ 現地案内板からの抜粋 ›
古河橋(ふるかわばし)は、明治中期までに架設された道路用鉄橋として、原位置に現存する極めて貴重な橋で、足尾銅山の誇れる産業遺産である。 「古河橋」はドイツ・ハーコート社製で、同23年6月架設工事に着手した。12月28日に竣功させるという突貫工事であった。翌年には橋上に日本初の実用化した電気鉄道(単線)を敷設した。平成5年に「新古河橋」が下流側に架設されたので古河橋は歩道橋として残された。
日光市指定文化財(昭和56年12月1日指定)日光市教育委員会
‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
明治20(1887)年の大火を教訓に、燃えない橋として道路用鉄橋が明治23年に架けられました。
トラス構造48.5mの橋は、ドイツから輸入したもので、日本に残されている道路用鉄橋としては、古いものに数えられます。

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本山小学校講堂運鈍根22.本山小学校講堂 私立古河足尾銅山尋常高等小学校(本山小)は、明治25年(1892)に本山福長屋(現地名:南橋)に創立、明治40年(1907)に現在地の向間藤に新築移転し、戦後公立となりました。古河鉱業の建設物で学校関係では唯一この講堂が現存します(写真右:2010/02/21)。
  左の写真は本山小学校校庭にある運鈍根の碑です。(写真左:2008/12/29) 
♦ 運鈍根:古河市兵衛の座右銘のひとつ

(本山小学校校歌・歌詞2番)
   運鈍根の信条が   いまも生きてる学び舎に   ぼくもわたしも元気な子
   心をみがき身をきたえ   伸びゆく本山小学校
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
講堂は昭和15年の建設ですが、当時、小学校に講堂が建設されるのは珍しいことでした。平成17年4月、本山小は足尾小に統合され歴史に幕を下ろしました。

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‹ 平成19年11月30日 経済産業省発表資料からの抜粋 ›

地域活性化のための「近代化産業遺産群33」の公表について
本件の概要
平成19年4月、経済産業省では産業遺産活用委員会を設置し、我が国産業の近代化に大きく貢献した「近代化産業遺産」について地域史、産業史を軸としたストーリーを取りまとめるべく検討を重ねてまいりました。
全国の行政、企業関係者のご助力の下、今般、「近代化産業遺産群33」として取りまとめ、構成する近代化産業遺産を地域活性化に役立つものとして認定を行うこととなりましたので公表いたします。
この近代化産業遺産が、地域の皆様に活用される事を期待いたします。
公表日 平成19年11月30日(金)
発表資料名
地域活性化のための「近代化産業遺産群33」の公表について(PDF形式:26KB)
  http://www.meti.go.jp/press/20071130005/sangyo-isan-p.r.pdf
近代化産業遺産群33(PDF形式:3,443KB)
  http://www.meti.go.jp/press/20071130005/isangun.pdf
近代化産業遺産認定リスト(PDF形式:94KB)
  http://www.meti.go.jp/press/20071130005/list.pdf

12.銅輸出などによる近代化への貢献と公害対策への取組みに見る足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群
◆構成遺産リスト
地域 栃木県日光市
遺産名称 足尾銅山関連遺産
内訳
1通洞坑 − 2通洞選鉱所 − 3本山製錬所 − 4古河掛水倶楽部 − 5宇都野火薬庫跡 − 6足尾銅山採鉱坑道(本山坑) − 7足尾銅山採鉱坑道(小滝坑跡) − 8本山動力所 − 9通洞動力所 − 10間藤水力発電所跡 − 11新梨子油力発電所 − 12通洞変電所 − 13間藤浄水場 − 14中才浄水場 − 15原堆積場 − 16有越鉄索塔 − 17古河鉱業間藤工場 − 18本山鉱山神社 − 19松木地域旧三村 − 20足尾鉄道 − 21古河橋 − 22本山小学校講堂
※資産名は足尾銅山最盛期の名称に基づく

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