足尾銅山の近代化産業遺産群の基礎となる石垣のある風景
石組み技術その昔、足尾の住居は石垣のうえに存在していました。そこには、あたかもインカ遺跡のマチュ・ピチュ(Machu Picchu)をも連想させる、石積み構造物のある風景が、今なお存在しています。
(写真:小滝地区広道路 2007/09/16)
地中深く銅を採掘する土木技術は建築の基礎となる石組みにも活かされ、確かな技術で造られた石垣は今も長い年月を耐えて現存します。
(写真:"鷹の巣"集落跡 2010/03/12)
漱石の「坑夫」に、主人公が "銅山(やま)" へ行く場面の中で、 「…山の中に山があって、その山の中に又山があるんだから馬鹿々々しい程奥へ這入る訳になる。この模様では銅山のある所は、定めし淋しいだろう。…」 という描写があります。
その「定めし淋しい所」に存在した銅山施設、しかも撤去された跡地に広がる崩れた石垣の残る光景は、かつて盛んに操業していた当時をイメージすると、とても物悲しい気持ちになります(写真:"小滝選鉱所跡" 2011/03/30)。
馬車鉄道 橋台の石積み
橋台跡明治24年(1891)に軽便馬車鉄道の敷設工事が始まりました。台車の寸法は、幅約120cm、長さ約240cmと小さいものですが、保有する総台数は約220台もあり、さらに馬数は300頭余り保有していたため、一日当たりの運搬能力は約150トンもあったそうです。
この神子内川左岸に残されている石積は、上小畑沢に架かっていた馬車鉄道軌道の橋台跡で、大きさは幅5.0mで、高さは3.8mあります。(撮影:2008/12/29)
(足尾馬車鉄道)
明治23年(1890)に中央との物資輸送力を確保するために足尾と日光を隔てる細尾峠に架空索道が架設された。そして、両側の索道起点に馬車鉄道をつなげて交通路網が整備された。馬車鉄道の軌道はその後ガソリン軌道に転用され、昭和29年(1954)まで使用された。
(馬車鉄道)
軽便軌道上のトロッコを馬が引く輸送方法のひとつで、通常の馬車より走行上の摩擦が少ないため速度も速く、乗り心地も良く、また軌道上を走行するために舵取りも必要ないという利点を持つ。
小滝小学校跡の石段と石垣
ドソリ遊び小学校前にそびえる通称『さんかく山』もマチュピチュの聖山ワイナ・ピチュを連想することができます
(写真右:2007/09/16)。
かつて子供達は冬に雪が積もると、石段でドソリ(そり)遊びをしました。その石段を登りきると"小滝小学校跡"に出ます。直ぐ脇に、二宮金次郎の台座が残っています。(写真左:2007/09/16)。
(現地案内板の一部引用)
小滝小学校
明治26年、私立足尾銅山尋常高等小学校小滝分校として開校/大正7年、児童数991人/昭和31年廃校。
広道路地区の石垣全般
乱積方法この石垣の上には昔プールがありました。生活の場の為の土地が少ない所で、しかも夏の利用に限られるプールの存在は当時の文化の高さを感じとることができます。
写真の石垣は乱積方法で構築され、この方法は自然石を割った割石の大小さまざまな石を組み合わせる高度な技術が必要です(撮影:2007/05/04)。
谷積方法写真の石垣は目地巾が小さく、しっかりした石のかみ合わせで、締まった美しい石積みとなっています。積み上げる時に現場での調整が適切になされたのでしょう。
この石垣は谷積方法で構築され、この方法は斜めになった石材同士が、お互いに影響するせり持ち作用のため崩れにくくなっています(撮影:2007/09/16)。
北夜半沢集落跡から南夜半沢集落跡
北夜半沢
足尾の中でも特に石垣が似合う集落は、夜半沢(やはんざわ)の両岸にあった夜半沢集落でしょうか。
そして庚申川に流れ込む夜半沢の左岸にある集落を北夜半沢と呼んでいました。その場所には、小滝の里を過ぎて庚申川を渡り、そこから庚申川右岸の階段を上がると、たどり着くことができます。(撮影:2007/05/04)。
グランドローラ坂道や石段がつづく道を、当時の人は何の苦もなく毎日の生活の場に使用していたのでしょう(写真左:2000/11/23)。
テニスコートの整地にでも使用したのでしょうか、グランドローラが残っています(写真右:2008/10/04)。

南夜半沢
庚申川に流れ込む夜半沢の右岸にある集落を南夜半沢と呼んでいました(写真左:2000/11/23)(写真右:2008/10/04)。
銅山医局分院
銅山医局分院(小滝医局)は明治22年(1889)に開設され、庚申川に架けられた吊り橋(馬立橋)の袂にありました。今は分院も吊り橋も基礎部分の一部が残るだけです。私が5〜6歳の頃、父親に連れられて二度ほどこの病院に掛かった記憶があります(写真右:小滝医局跡 2008/10/04)。
破損したビンが落ちていました。薬ビンの欠けらでしょうか(写真左:小滝医局跡 2008/10/04)。足尾歴史館内には、色鮮やかで、さまざまな形の薬ビンが展示されています。

対岸から庚申川で、へだてられた南夜半沢を、小滝の里からながめてみます。山裾を階段状に切り開いて造成した鉱夫社宅も、集落の南玄関口として往来していた馬立橋も、その橋の袂にあった病院も取り壊されて、現在は基礎部分のみが残っています。
(写真左:南夜半沢社宅跡 2011/03/30)
(写真右:写真の中央が馬立橋の橋台、左後方の石積みが病院跡、右後に続く石段はメーンストリート 2011/03/30)
第一松木川橋梁の"橋脚"
石と鋼の二段式橋脚明治期の橋脚は石造あるいは煉瓦積で製造するのが一般的でした。しかしこの橋脚は、石と鋼の二段式構造で出来ています。石積基壇の上に鋼製トレッスル(鉄塔)を設置し、上路式プレートガーダー( I型の桁で構成される橋桁)を支える構造となっています(撮影:2007/10/20)。
切石積み方式は長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積むイギリス方式を採用。フランス積みに比べると、イギリス積みは丈夫(強度が高い)で経済的(使う材料が少なくて済む)といわれ、土木構造物や鉄道関連の施設でよく見られます
(撮影:2007/10/20)。
第二渡良瀬川橋梁の"切石積橋脚"
100年近く使用されている門型橋脚
第二渡良瀬川橋梁は、足尾銅山の産銅や資材、食料品などを輸送する目的で大正元年(1912)に架設されました。
橋脚に作用する力は重力の他、水圧、風圧、地震荷重などがあります。これらの外力に耐ええる構造であることは勿論の事ですが、流水に対しては橋脚自体が流れを妨げることがないように設置されなければなりません。
これらの事を考慮して造られた円形開口部のある門型橋脚は、建造当時の重厚な風合いを現在も留めて、尚且つ実用に耐えています(撮影:2007/10/20)。
銅山社宅 深沢(ふかさわ)

深沢にて深沢左岸に沿って建つ無人社宅。基礎となる石積みがしっかりと残っています(写真左:2008/01/20)。
火災時の延焼を防ぐ為に、゚(からみ)で出来た黒いレンガの防火壁が各地区に残ってますが、ここの防火壁は一般的な赤レンガで出来ています(写真中央:2008/01/20)。
深沢上流の深沢雨量観測所脇にある石垣(一の茶屋跡)の上には、大きな灯籠も残っています(写真右:2008/01/20)。
♦半月峠道 : 日光市中宮祠と日光市足尾町を結ぶ半月峠越えの道が開通したのは大正9年のことで、幹線道路として昭和前期まで利用された。その当時営業していた茶屋のひとつが "一の茶屋"で、石垣や灯籠の残っている上記の場所が跡地である。
(現地案内板の一部引用)
明治17年大富鉱(直利)の発見で各地から足尾に坑夫が集まるようになり、深沢には坑夫の信仰する八聖山金山神社が祀られ、住家も建つようになった。平成8年(1996)末から無人の社宅となる。
゚(からみ)
愛宕下に残る防火壁愛宕下は鉱業集落で、社宅群があったところです。今も黒い煉瓦造りの防火壁が残っています。
これぱ煉瓦(からみレンガ)造りで、製錬過程で出る鉄分が多くて比重が高い耐久性のある廃棄物を利用したものです。
防火壁のある風景
(写真左上:2007/10/20)
(写真右上:2008/01/04)
(写真右:2011/03/30)
松木堆積場跡製錬過程で発生した"゚"の捨て場跡が松木堆積場跡です。右の写真は堆積場の゚の大きさ標示のために10円硬貨と共に撮影しました(写真左右:2008/10/25)。
♦゚(からみ):製錬によりハ(かわ)と、かすに分離する。このかすを゚あるいはスラグという。
本山鉱山神社の石積み
足尾最古の山神社鉱山で働く人たちの安全と鉱山の繁栄を願い明治22年(1889)に造営された足尾に現存する最古の山神社です。
左の写真は舟石林道の直ぐ脇にある最初の参道石段で、石段の上には一の鳥居が見えます(写真左)。
長い坂道と石段を上ると、やがて山神社本殿を支える石垣にたどり着きます(写真右)。
(撮影:2008年3月30日)
足尾製錬所の 石積み と 石張り
今も土留め任務遂行中石張り部分(写真左)は、大きさを揃えた玉石で敷きつめられ、目地は上下に通らないように注意され施工されています。この石張りの石ころ群は、長年の風雨にも負けず土留めの任務を現在も健気に続けています。
石積み部分(左写真、影の部分)は谷積み工法と乱積み工法で石一つ一つの表情を生かした外壁を造り出しています(写真左:2008/12/29)。
右写真の外壁も谷積み工法と乱積み工法の手法を採用し、横目地が通らない熟練を要する技術を駆使して施工したものといえるでしょう(写真右:2008/12/29)。
出川支渓の治山施設
水神宮出川左岸、"鷹の巣"集落跡に清水のわき出る水場があり、上部には水神宮碑があります。現地案内板によりますと、古河市兵衛が足尾銅山の経営を開始する以前の明治6年に、水神宮碑が建てられたものと分かります。しかし、石碑の裏に書かれた文字は、「大正五年之秋再建 有志」と読み取れます。もしかしたら集中豪雨に見舞われて水神宮碑が流された時、新たに石垣を造り水神宮碑が再建されたのでしょうか。ともあれ、この水神宮碑の背後の石垣は、谷止工という治山施設で、長い年月の間、土石流等を防止して来た事は確かでしょう(写真:2008/03/30)。
♦水神宮碑と鷹の巣坑 : 出川支渓の急傾斜地にある"鷹の巣坑"の採掘を請負っていた斉藤八郎は、銅山師として水害による山腹崩壊防止を祈願し、水神宮碑を建てたのでしょう。明治14年、古河は斉藤八郎から"鷹の巣坑"採掘権利を譲り受け、ここから近代足尾銅山が本格的に始動しました。
‹ 現地案内板からの抜粋 ›
♦水神宮碑: 古河市兵衛が足尾銅山を経営開始(明治10年)する以前の、明治6年に、銅山師(やまし)斉藤八郎が建てたものである。(この沢を約40m入ったところ) 日光市
♦鷹の巣坑(たかのすこう): 対岸の中腹にあった古河の最初の直営坑
足尾銅山は、明治10年(1877)に古河市兵衛が経営するまでは、下稼人(山師)の請負で採掘していた。当時38人の下稼人が70余の坑道を稼働させていたが、市兵衛は古河の直営坑を進め、同13年に休止していた鷹の巣坑の開発に着手し、········翌年には鷹の巣坑の権利を下稼人から買収し直営坑とした。········ ∗ 危険ですので立入らないで下さい。 日光市

谷止工"鷹の巣"集落跡の裏山に、治山施設の谷止工群があります。現在の工法ではコンクリート谷止工、鋼製谷止工が主流ですが、ここに現存する施設群は自然石による石積です。確かな技術で造られた石垣は、おおきな損傷もなく長年経過した現在でも、実用に耐えています。(写真左:2010/03/31)。
石積み谷止工に集まった水は、底や岸が浸食されないように石を敷き詰めた直線状水路を流れます(写真右:2010/03/31)。
土留工"鷹の巣"の集落跡背後の山腹には、荒廃対策として土留工という石垣群が造られています。14箇所程でしょうか、等高線に沿った形で山腹のところどころに壁が設置されています。これにより、山腹がしっかりと固定され、上部から崩れ落ちようとする土砂が押さえられ、谷止工に水が誘導されます(写真:2010/03/12)。

流路工谷止工に誘導された水は、直線状水路を流れ落ちます。直線状水路の荒廃を防ぐ治山施設には、流路工などがあります。
流れの急な直線状水路排水路では、石を敷き詰め底面、側面を保護し、流れる水の勢いによって、底や側壁が削りとられるのを防止します(写真左:流路工 2010/03/12)、(写真右:流路工から谷止工を見上げる 2010/03/12)。