通洞駅(つうどうえき)

通洞駅通洞駅 通洞駅わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線の駅で、栃木県日光市足尾町松原13番地にあります。大正元年(1912)に足尾鉄道通洞駅が開業しました。
 駅名の"通洞"は、地名の"通洞"から、名づけられたのでしょう。"通洞"とは、鉱山用語だそうです。私の小学時代、通洞地区と砂畑地区の近道として通洞坑の左に位置する坑道を時々利用していました。このように当時の通洞地区では"通洞"と言う鉱山用語が身近に存在していました。(写真左:2007/10/20) (写真右:2010/11/07)
(通洞 : 鉱山で運搬•排水を集中して担う最も重要な坑口坑道のこと)

本山小学校講堂 木造平屋の駅舎は、柱や梁が壁の表面にむき出しになった木組みの様式で建てられ、山小屋風の独特の外観を形づくっています。他にもこのような木組みの様式で建てられている建物が、間藤にもあります。それは昭和15年(1940)に建設された本山小学校講堂です。当時、小学校の講堂という建物は大変珍しいものだったそうです(写真:2008/01/04)。

駅からの散歩道

ガソリンカー足尾郷土人形「山の神」 足尾歴史館 足尾歴史館は通洞駅から歩いて数分の所にあります。駅からはおもいでのこみちの看板が道しるべになります(写真右上:2007/10/20)。
 館内ではスタッフの方々から足尾の歴史を説明していただきました。展示されている足尾郷土人形山の神は、郡司敏夫氏手作りの作品で、個性と品位が漂います(写真左:2008/5/3)。
  明治時代に始まった馬車鉄道による町内輸送の次の担い手として、ガソリン機関車が導入されました。ガソリン(カー)または定時とも呼ばれ、大正15年から貨物や人の輸送手段の主流となって運行されました。私の記憶ではガソリンカーが脱線した時、長い木材をてこにして車輪を持ち上げていました。年月がたって昭和28年にはトラックやバスに運行業務を譲り、27年間の長い歴史に終止符が打たれました。
  足尾歴史館プロジェクトチームの皆さんにより、そのガソリンカーが2009年8月に復元されました。写真右中はガソリンカーの運転室内で、舵取り装置のようなまるい物は手動式ブレーキのハンドルです。写真右下はボンネットを開け、エンジン部分を撮影したものです。
(写真右中・右下:2009/11/08)

▲このページの上に戻る

通洞大橋 銅山観光 銅山観光通洞大橋(写真右:2008/8/12)のたもとに足尾銅山観光がある。銅山観光はトロッコ列車に乗り坑内へと入ります。この銅山観光を見学すると、足尾銅山の歴史や鉱山の内容、とくに坑内作業を理解することができます。
 足尾銅山400年の歴史において、堀り開いた坑道の長さを合計すると1234キロメートル(東京〜博多間)に達するそうです。採掘深さは備前楯山山頂付近から約1100メートルの深さまで採掘されました。

写真左(撮影 2008/8/12)のトロッコについて(現地案内板の引用)
● 「足尾A型」古河鉱業(株)足尾製作所小山工場製造
主要坑道で使用され、1屯角坑車25両を牽引しました。閉山まで活躍し、残る最後の1両です。
●  「1t角鉱車」鉱石を運搬するために使用していた鉱車で、約1トンを積載する能力がありました。また、坑内労働者もこの鉱車に乗って坑内へ向かいました。

銅山観光 銅山観光 通洞坑と山の神
  昭和48(1973)年2月24日"通洞坑"(国指定史跡)の閉山式当日は、雪が静かに降り続いたそうです。そして、その日を境に坑口を出入りする坑夫の姿は途絶えました。
 しかし、足尾銅山観光のオープン(1980年)以来多くの人たちが訪れています(写真左:2008/8/12)。
  私の小学生時代は通洞地区と砂畑地区の近道として通洞坑の左に位置する坑道を利用していました。
  通洞坑入口の右上には山の神が祭られています(写真右:2008/8/12)。

(現地案内板の一部引用)
 通洞坑(つうどうこう)
明治18年(1885)開坑に着手し、11年の歳月をかけ本山坑と貫通させ、足尾銅山の大動脈となった。昭和48年閉山となり日本最大の銅山は歴史を閉じた。 日光市

▲このページの上に戻る

鋳銭座跡鋳銭座跡通洞駅を中心とする旧道沿いには商店街が立地し、その一角に鋳銭跡碑(日光市指定文化財)があります(撮影:2008/01/04)。
 寛保2年(1742)7月からの鋳銭枚数は2億1千万余で、鋳銭座の場所は、現在の中央グラウンド周辺だったそうです。

足字銭 寛永通宝は、江戸時代 幕府の公鋳貨として1634年から幕末までの230余年にわたり、全国各地で造られました。そのうち足尾で鋳造された足尾銭は裏面に「足」の文字が刻まれていることから、通称足字銭と呼ばれています。
 尚、お金のことをおあしと言うのは足字銭(1文銭)が語源とも云われていますが、この鋳造枚数の多さからしても、納得できます(写真右上)。

‹ 足尾銅山観光内鋳銭座案内板の抜粋 ›
 1741(寛保元年)足字銭鋳造開始
寛保元年より5年間足尾に鋳銭座を設けて寛永通宝二千万枚鋳造
 おあし : よく、お金のことを 「おあし」 といいますが、どこからこういわれるようになったのか、色々な説があってはっきりしません。足袋(たび)の文数を表す基準となった寛永通宝の1文銭で足をはかったからという説、お金は足がはえたように出てゆくことからという説、また、足字銭の足をとったと考える古銭研究家もいます。

▲このページの上に戻る

狛犬 通洞鉱山神社 通洞鉱山神社
  通洞鉱山神社(つうどうこうざんじんじゃ)は銅山最盛期の頃の大正9年(1920)に鉱業所がこの地に移設されたとき造営され、以後、山神祭も盛大に行われたそうです。
 この狛犬は当初、簀の子橋(すのこばし)山神社にあり、通洞鉱山神社造営のときに移されました。この狛犬は寛保3年(1743)に彫られたが、その歴史を感じさせない現代っ子的な愛敬のある顔の持ち主です。
 私の小学生時代、この境内でかくれんぼをして遊んだものです。
(写真左右:2007/10/20)

カンテラ カンテラ 私の小学生時代(昭和34年頃)に、境内裏で飛び降りて遊んだ石垣が、今も変わりなく存在しています。当時は、その土手の芝の上に、白いカーバイトの燃えカスが点々と放置されていました。その中の、わずかに燃え残ったカーバイトに水をかけ、ガスを発生させて遊んだものです。
 カーバイトカンテラは明治末期(〜大正初期)から昭和35年ころまで使用されたそうです。写真のカンテラは「足尾歴史館」展示品です(撮影:2008/08/12)。

(現地案内板の一部引用)
● 通洞鉱山神社(つうどうこうざんじんじゃ)
足尾銅山の本山坑、小滝坑、通洞坑の三山にそれぞれ山神社が建てられた。当神社は銅山最盛期の頃の大正9年(1920)に鉱業所がこの地に移設されたとき造営され、以後、山神祭も盛大に行われた。通洞坑の開発は明治18年に着手されたが、それまで足尾銅山発祥地の簀の子橋山神社を祀っていた。 日光市
● 狛犬(こまいぬ)
愛敬のある独特な顔のこの狛犬は、寛保3年(1743)に彫られ簀の子橋山神社にあったが、大正9年、当神社造営のときここに移された。 日光市

▲このページの上に戻る

産業遺産

a.通洞選鉱所掘り出した粗鉱を砕き粉状にし(写真左 :2008/01/04)、シックナーで精鉱を取り出しました。(写真中央 :2008/01/04)
b.新梨子油力発電所非常用電力供給設備として使用されました。
 (写真右 :2008/01/04)

b.新梨子油力発電所 a.選鉱所シックナー a.選鉱所


▲このページの上に戻る

c.通洞動力所圧縮空気を坑内に供給する為の施設です。
 (写真左下 :2008/01/04)
d.通洞変電所銅山で使用する電力を管理していました。
  (写真中央下 :2008/01/04)
e.中才浄水場現在も浄水処理が続けられています。
  (写真右下 :2008/01/04)

e.中才浄水場 d.通洞変電所c.通洞動力所

▲このページの上に戻る

近代化産業遺産平成19年、経済産業省により我が国産業の近代化に大きく貢献した「近代化産業遺産」について、足尾銅山など地域史、産業史を軸とした33ストーリー、575件が認定されました。
 ◎ストーリー12: 足尾
 ◎名称: 足尾銅山関連遺産

▲このページの上に戻る

a

 ▽ページ内リンク
通洞駅
足尾歴史館
ガソリンカー
足尾銅山観光
鋳銭座跡
通洞鉱山神社
カンテラ
産業遺産