足尾町で最も南に位置する原向駅(はらむこうえき)

わたらせ渓谷鐵道と原向駅原向駅原向駅わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線の駅で、栃木県日光市足尾町3066番地にあり、足尾町で最も南に位置しています(上左写真:2007/10/20)。
 原向駅のホームを離れ、沢入駅に向け列車が走り出しました(右写真:2015/08/23)。
 駅の北側を渡良瀬川が流れるため、国道122号に出るには渡良瀬川に架かる "原橋"を利用します(下左写真:2008/01/04)。  

原橋から上流を見る原橋 右の写真は原橋から上流を写しました。国道122号に沿って続くコンクリート壁の内側は、坑内から掘り出された廃石や、砕いた廃泥を堆積しておく原堆積場がありました(右写真:2015/08/23)。
♦沢入駅に向け列車が走り出しました
♦第二渡良瀬川橋梁を走る

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磐裂(いわさく) 神社

磐裂神杜 御神木ひのき 神社と御神木ひのき
 磐裂神杜の御神木ひのきは樹齢250年、高さ35メートル、太さ3.2メートルで平成元年6月15日栃木名木百選に指定されました。
(左右写真:2008/08/12)

(現地案内板の一部引用)
「足尾5氏」と言われる一族14人が日光から移住してきた時 妙見宮の分身を拝受し、大同3年(808)に足尾郷14ケ村の鎮守と定めた。文化文政の頃庚申山信仰が盛んになり登拝口として講中寄進の庚申山碑や一丁目標が建てられた。神社は大正3年(1914)現在地に移った。境内に栃木県名木百選の大桧(神木)がある。 日光市

丁石旧猿田彦神社跡 丁石
(ちょういし)

 江戸時代、庚申山登拝の出発点は遠下の磐裂神杜でした。江戸講中の人たちが建てた道標が登山道に現存しています。磐裂神杜から庚申山まで114丁(旧道)あり、右写真の地点が出発点の「一丁目」です。この道標は文久3年(1863)4月8日建立です(右写真:2008/08/12)。
 庚申山まで114丁の距離とは言っても、庚申山講者の目的は、山内の岩場を巡り、神社に参詣することですので、旧猿田彦神社跡が、百十四丁目に当たります。
(上左写真:2008/06/14)
♦丁石(ちょういし) :昔、道しるべとして用いられ、1丁(約109m)の間隔を置いて立てられた。
⇒ 1丁目丁石から、114丁目丁石へ

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駅からの散歩道

庚申山碑 庚申山碑駅から国道122号を通洞駅方面に行くと庚申川に架かる新切幹橋があります。ここを左折すると高さ4.1m、幅1.7m、厚さ70cmもある大きな石でできた有形民俗文化財 "庚申山碑" が、道路の右側にあります(写真:2007/09/02)。
 これは足尾町に存在する最大の石碑で、往時の庚申山登山が盛だったことが想像できます。
 石碑は、はじめ磐裂神社の第一鳥居わきに設置されていたそうですが、昭和25年に切幹橋の脇に移設されました。

(現地案内板の一部引用)
日光市指定有形民俗文化財庚申山碑足尾町切幹
この碑は慶応元年五月に庚申講の江戸講中二十三人と足尾宿の頭取、福田真右衛門の寄進によって建立されたもので書は松翁、石工は日光町(現在の日光市)の八十平の作となっています。碑の高さは4.1m、幅1.7m、厚さ0.7mであり、当時の庚申山信仰(猿田彦神社参拝)の隆盛を物語っております。
日光市教育委員会

第二渡良瀬川橋梁第二渡良瀬川橋梁原向駅から国道122号を通洞駅方面に行くと、切幹 (ぎりみき)橋があります。写真の左下奥のチョコレート色の小さな橋が切幹橋で、その手前の白い橋が旧切幹橋です。この二つの橋は庚申川に架かる橋ですが、手前の青色の橋は渡良瀬川に架かる "第二渡良瀬川橋梁" で、鉄道橋です(写真:2007/10/20)。

第二渡良瀬川橋梁 この橋梁は足尾鉄道によって、大正元年(1912)に架設され、国内製作で、しかも100年もの間使用されている貴重な橋梁です(写真:2007/10/20)。
♦旧切幹橋から第二渡良瀬川橋梁

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サンショウ里山風景 里山風景原向駅の背後にそびえる石倉山の山麓風景です(左写真:2008/01/04)。
 摘み取る人影も少ない里山で、赤く色づいた実がなっていました。原地区で見つけたサンショウの木です。間もなくして熟して割れて、黒い種子が現れるでしょう(右写真:2015/08/23)。
  "山椒の実熟して割れて赤と黒" とおる

原小学校原小学校原小学校原小学校は明治6年(1873)に開校しました。平成7年(1995)には児童数10名に減り、平成8年に閉校になりました。
(左写真:2015/08/23 校庭に残るジャングルジム)
(右写真:2015/08/23 校門脇に残る消火栓)

足尾発電所足尾発電所閉山に伴う旧足尾町の振興策として発電所の運営が検討され、昭和60年10月に竣工しました。
 取水方式は、ダム水路式で、神子内取水堰、渡良瀬取水堰そして滝沢の渓流からも水を取り入れ庚申ダムで貯水し、導水路で発電所へ送水します。また、餅ヶ瀬取水堰および畑沢の渓流からも水を取り入れて、発電所へ送水します。
 最大取水量は12.50m³⁄secで、最大出力は10,000kWです。また発電後の水は、放水路を経て沢入発電所取水堰の上流に設置してある鉄骨のスクリーン放水口から渡良瀬川に戻されます。
 発電設備は屋内にあり外からは見えませんが、背後斜面に据え付けられた水圧鉄管がひときわ目を引きます(上右写真:2015/08/23)。
 歴史のある水圧鉄管が、上間藤に現存します。それは明治23年に完成した水力発電所の水圧鉄管で、その一部が地面から斜めに突き出た状態で現存しています(上左写真:2010/05/03 上間藤に残る鉄管の一部)。
♦ ダム水路式発電所:ダムにためた水を導水路を使ってさらに下流に導いて発電する方式で、水路式発電所とダム式発電所の長所をあわせ持っています。
♦ 取水堰:川をせき止め、水を取り入れるための施設です。

オットセイ岩オットセイ岩川に迷い込んだオットセイがこの場所まで溯上して来たが戻れず、そのまま岩になってしまったという言い伝えがあるオットセイ岩です。
 唐風呂(からふろ)地区の入口付近から河原に下りることができます。また、わたらせ渓谷鐵道の車窓からも見ることができます。
 オットセイ岩の高さは約2.1mです(写真:2010/04/18 渡良瀬川右岸)。
♦花に囲まれたオットセイ

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" 笠松片マンプ " は 岩壁をけずりとって造った道路です

笠松片マンプ片マンプ 笠松片マンプ大萱山西端尾根の高い崖が切り立って続いている側壁に、笠松片マンプがあります。
 今日では笠松トンネル(わたらせ渓谷鐵道)内を列車が通っていますが、当時は岩盤を掘り進むことが困難なため、側壁を削って片トンネルにして、馬車鉄道の軌道を敷設しました。
 この笠松片マンプ跡は、当時の物流道路の様子が分かる、貴重な産業遺跡でもあるのです。
(上左写真:2008/08/12)(上右写真:2019/11/18)
♦ 大萱山(おおがややま):足尾町南端の県界稜線中央に位置し、1154.2m 三角点のある山。

笠松トンネル と 笠松片マンプ
笠松トンネルと笠松片マンプ♦栃木・群馬両県の鉄道での県境は、笠松トンネルの中間になります。
 笠松片マンプは、足尾トンネル(道路)と、笠松トンネル(鉄道)に挟まれ、渡良瀬川の左岸にあります。
 上の写真は、笠松トンネルを通過する列車と、馬車鉄道時代に利用された笠松片マンプ(岩盤の側壁をの形に削り取って造った半トンネル)のスナップショットです(上写真:2008/08/12)。
♦馬車鉄道 : 軽便軌道上のトロッコを馬が引く輸送方法のひとつで、通常の馬車より走行上の摩擦が少ないため速度も速く、乗り心地も良く、また軌道上を走行するために舵取りも必要ないという利点を持つ。
♦足尾銅山の馬車鉄道 : 明治24年、馬車鉄道工事開始、明治26年完成。これにより、渡良瀬を、一大 ターミナルステーションとする、軽便馬車鉄道網が完備。

♦笠松トンネルと笠松片マンプ跡
⇒ 文象石山 片マンプへ

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小名峠 • 大名峠は、あかがね街道のなかで最大の難所でした

足尾トンネル 小名峠と足尾トンネル群馬県側から足尾に入る最後の難所だった小名峠。
 その下を突き抜けて造られたトンネルが足尾トンネルで、笠松トンネルの対岸にあります。
  写真は群馬側からの足尾トンネル入口。壁面には足尾銅山坑夫のレリーフが足尾の町に入る人を歓迎しています(写真:2008/08/12)。

足尾トンネル 右の写真は足尾側からの足尾トンネル入口。壁面のレリーフは、原小学校の児童たちが美しく豊かな自然に恵まれた郷土を誇りに思い、足尾の動物たちを描いたものです(写真:2008/08/12)。

沢入トンネル足尾側大名峠と沢入トンネル あかがね街道のなかでも、険しくて極めて交通困難であった大名峠。
  その下を突き抜けて造られたトンネルが、沢入トンネルです。この沢入トンネルの足尾側が、県境になります(写真:2015/08/23)。
♦ 県界トンネル : 栃木・群馬両県の県界トンネルは、鉄道での県境は笠松トンネルの中間地点ですが、自動車道では群馬県側から沢入トンネルに入り、通過すると栃木県になります。
♦ 小名(こな)峠と、大名(おおな)峠 : 本項目の作成に当り幾つかの文献を参考にさせていただきましたが、いくつかの相違点があり、結果上記の如く表現しました。

銅山(あかがね)街道
 慶長15年、足尾銅山が発見されてから38年後の慶安2年(1648)に、沢入、花輪、大間々桐原、大原本町、亀岡の5か宿の銅問屋を経て、利根川べりの平塚、のちに前島河岸(現在の群馬県尾島町)まで、足尾の粗銅を馬で運ぶための銅山(あかがね)街道が設けられた。
 明治10年、古河市兵衛が足尾銅山を買収した当時の上州路、日光路は、どちらも人が2人並んで歩けぬほど狭く、馬につけた3m以上の荷物は、曲り角でつかえ、風雪の時は、道路が全くと絶するありさまであった。
「足尾郷土誌」  からの抜粋

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切幹の里 と 「南総里見八犬伝」

読本 「南総里見八犬伝」文化14年(1817)、次第に出銅が少なくなり、銅山は休止状態となる。このころ江戸で書かれた大長編小説が「南総里見八犬伝」です。
 小説では八犬士の一人、犬飼現八が化け猫を退治しますが、この場所が足尾です。渡良瀬川と庚申川が合流する地点 (切幹の里近辺が想像できる) にある一軒の茶店が物語の発端となる場所です。犬飼現八がこの茶店で庚申山の化け猫についての話を聞き弓を買い、そして犬村角太郎と協力し苦難の末、化け猫を退治するのです。

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◎ 本ページの作成に当っては下記文献を参考にさせていただきました。記して深謝申しあげます。
  • 「足尾ガイド」作成委員会(2006)『足尾ガイド』足尾町
  • 桑野正光(2010)『栃木の峠』随想舎
  • 村上安正(1998)『銅山の町 足尾を歩く』随想舎
  • 『広報あしお 足尾の産業遺跡 9 銅山街道の最大の難所であった大名峠・小名峠』
  • 『広報あしお 足尾の産業遺跡10 笠松に片隧道で通した軽便馬車鉄道』

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